議論が噛み合わないとき、
私たちはしばしば「意見の違い」が原因だと考える。
しかし、少し立ち止まって観察してみると、
別の可能性が見えてくる。
人は何が言われたかよりも先に、
どこから言われたかを感じ取っているのかもしれない。
同じ言葉でも、
• 上から言われたと感じると反発が生まれ、
• 横から差し出されたと感じると耳を傾けられる。
問題は内容ではなく、
言葉が置かれた「位置」なのだ。
人は常に、無意識に位置を測っている。
自分より上か。
下か。
対等か。
そしてその知覚は、驚くほど速い。
内容を理解する前に、
身体が反応していることすらある。
だから議論は、しばしば始まる前に終わる。
反論の多くは、意見への抵抗というより、
位置の調整なのかもしれない。
「そこに立たないでほしい」
言葉にならないこの感覚が、
摩擦として現れる。
ここで一つ、注意したいことがある。
位置は、意図によってだけ生まれるわけではない。
むしろ多くの場合、
知性や整理そのものが高さとして知覚される。
構造を語る。
解釈を置く。
全体を俯瞰する。
それだけで、人はわずかな距離を感じる。
だから「上から目線」は、
態度ではなく知覚の問題でもある。
では、語ること自体を控えるべきなのだろうか。
おそらくそうではない。
ただ一つ意識できることがあるとすれば、
それは結論を急がないことだ。
断定は位置を固定する。
観測は位置を開く。
「これはこうだ」と言い切る代わりに、
「こんな構造があるのかもしれない」と差し出す。
それだけで、言葉は上下ではなく、
共有される風景になる。
成熟とは、
位置を持たないことではない。
自分がどこに立っているかを知りながら、
相手の立つ場所も同時に想像できることだ。
対立の多くは、意見の違いではなく、
立っている場所の違いから生まれる。
もしそうだとしたら、
議論に必要なのは正しさよりも先に、
互いの位置を見ようとする態度なのかもしれない。
——位置の思想
