誰かが意見を述べたとき、
内容よりも先に名前が与えられることがある。
リベラル。
保守。
理想論。
現実主義。
その言葉が置かれた瞬間、
議論は少しだけ動きを止める。
私たちは本当に、
その人の考えを理解したのだろうか。
それとも、
理解しなくてもよい場所に置いたのだろうか。
ラベルには本来、役割がある。
複雑な世界を整理するための、
小さな目印のようなものだ。
しかしそれは同時に、
距離を固定する働きも持っている。
「あの人はリベラルだ」
そう認識した瞬間、
言葉は内容ではなく、立場から読まれる。
すると議論は、意見の交換ではなく、
位置の確認へと変わっていく。
どちら側か。
内側か、外側か。
私たちは知らないうちに、
理解よりも先に配置しているのかもしれない。
なぜラベルは、これほどまでに安心をもたらすのだろう。
おそらくそれは、
考え続けなくてもよくなるからだ。
人は本来、不確実な状態に長く留まることが苦手だ。
わからない。
判断できない。
まだ結論が出ない。
その揺れに耐えるより、
名前を与えてしまった方が早い。
ラベルとは、思考の終点として機能することがある。
ただ、ここで少し立ち止まりたい。
ラベルを使うこと自体が問題なのではない。
問題は、それが
理解の入口ではなく出口になってしまうときだ。
本来、言葉は世界を開くためにある。
しかし配置のためだけに使われると、
世界は急に狭くなる。
人ではなく、記号と話しているようになる。
もしかすると成熟とは、
ラベルを持たないことではない。
ラベルを知りながら、
それを一度脇に置ける態度のことなのかもしれない。
名前を与える前に、もう少しだけ聴いてみる。
配置する前に、もう少しだけ眺めてみる。
そのわずかな余白が、
思考の呼吸を守る。
対立が深まるとき、
そこでは意見が衝突しているというより、
位置が固定されていることが多い。
もしそうだとしたら、
議論に必要なのは説得力よりも先に、
互いを記号にしない姿勢なのだろう。
理解とは、ラベルを外したところから始まるのかもしれない。
——位置の思想
