私たちは、自分の意思で選んでいると思っている。
しかしその選択には、静かな構造がある。
今回は、その中でも最も身近で、
そして最も気づきにくい原理から始めたい。
社会的証明。
なぜ私たちは、「多くの人が選んでいるもの」を信じやすいのだろう。
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たとえば、知らない店に入るとき。
行列ができている店を見ると、
理由は分からなくても「きっと良い店なのだろう」と感じる。
逆に、誰もいない店には、
どこか入りにくさを覚える。
本来、味とは関係のない情報のはずなのに、
私たちの判断は静かに傾いていく。
これは特別なことではない。
人間にとって、
多数派を参照することは合理的な戦略だった。
危険の多い環境では、
自分一人の判断よりも、集団の動きに合わせる方が生存確率は高い。
つまり社会的証明は、弱さではなく、
むしろ人間の知恵に近い。
この原理があるからこそ、
私たちは毎回すべてを検証しなくても生きていける。
社会は、ある程度効率的に動く。
ただ——
ここで一つ、静かに立ち止まってみたい。
多数であることと、正しさは、同じなのだろうか。
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情報が限られていた時代、
多数派は「現実」を反映しやすかった。
しかし今、私たちはかつてない量の情報の中にいる。
評価、レビュー、ランキング、いいねの数。
可視化された「みんな」が、あらゆる場所に存在している。
そしてときに、
その「みんな」は自然に生まれたものとは限らない。
意図的に強調され、
演出され、
増幅されることもある。
それでもなお、
数字には不思議な説得力が宿る。
一万件の高評価を見ると、
私たちは安心する。
そこに至る過程を知らなくても、
判断はゆっくりと整えられていく。
怖い話をしたいわけではない。
社会的証明そのものは中立だ。
善でも悪でもない。
ただ、構造として存在している。
問題があるとすれば、
それに無自覚なまま従ってしまうときだろう。
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SAROSでは、人の認知を階層という視点から捉える。
どの階層が優れている、という話ではない。
世界の見え方が少しずつ変わっていく、という理解だ。
社会的証明もまた、
階層によって作用の仕方が変わる。
無自覚に参照する段階がある。
理解したうえで活用する段階がある。
そして、ときに距離を取れる段階がある。
例えば——
多くの人が支持していると知った瞬間、
安心が生まれることがある。
それは自然な反応だ。
一方で、こう問い直す余白が生まれることもある。
「なぜ、多くの人が選んでいるのだろう。」
この問いは、多数派を否定するためのものではない。
ただ、自分の判断がどこから生まれているのかを知るためのものだ。
理解が介在した瞬間、
私たちは原理に支配される側から、
少しだけ距離を取った位置へ移動する。
完全に自由になることは、おそらくできない。
けれど。
反応する前に、ほんのわずか立ち止まる。
それだけで、選択の質は静かに変わる。
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現代は、「みんな」がとても近い。
だからこそ、ときどき忘れてしまう。
判断とは、本来もう少し静かな場所で生まれるものだったはずだ。
周囲の動きを眺めながらも、
同時に自分の感覚にも耳を澄ませる。
その両方を持てたとき、
多数派は圧力ではなく、単なる情報の一つになる。
SAROSが目指しているのは、
原理から逃れることではない。
ただ、理解すること。
理解は、ときに余白を生む。
判断が立ち上がる前の、わずかな静けさ。
凪に似た、その場所へ戻るために。
次回は、もう一つの強い原理を取り上げたい。
「権威」。
なぜ私たちは、肩書きを持つ人の言葉に重みを感じるのだろう。
